節分蕎麦と年越し蕎麦の違い 節分蕎麦の由来

江戸っ子は昔から節分には「節分蕎麦」を食べていました。

節分は宮中での年中行事であり、立春の日の前夜の夜半に行われる「追儺」「鬼やらい」の儀式が一般化したもので、その時に食べるのが「節分蕎麦」です。

江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られたり、浅草の道光庵の繁盛を見てもわかるように「蕎麦」は「精進料理」としての認知がありました。

一方、江戸時代の蕎麦屋事情ですが、「花のお江戸は八百八町」と言われていますが実際にはもっと多く、江戸の町の数は1600町程度、対して蕎麦屋の数はおよそ倍の3000程度との資料があります。蕎麦屋は当時からそばの出前のスタイルを完成させていましたし屋台の蕎麦屋も相当数あったようです。つまり江戸中蕎麦屋が出前していたわけで、精進料理のそばを出前してもらって食べる。これが江戸の町の節分のスタイルだったと考えられます。

「恵方から届く精進料理を食べ、明日からの春を清々しく迎える」これが江戸っ子の節分です。

年越しそばとの違いですが、年越し蕎麦は一年の最後、江戸時代の暦は「太陽太陰暦」一か月は月の運行で決まります。一方節分は太陽の運行で決まります。元日と節分が近くなるように工夫しますがもともと別々の時間の計り方なのでどうしてもずれてしまいます。よって年越し蕎麦と節分蕎麦ははっきりと区別されます。

年越し蕎麦はその年の年神様をお迎えするための神事で、節分蕎麦は「鬼やらい」の宮中行事を模して一般市民に広まった行事です。
ともに節目を清清しく迎える気持ちは同じですが、年越し蕎麦は年神様、節分蕎麦は「追儺」の儀式に食するものという明確な違いがあります。

平たく言ってしまえば、一年の終わりに食べるのは「年越し蕎麦」で、立春の前日(節分)に食べるのは「節分蕎麦」です。

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太陰太陽歴では、立春、立夏、立秋、立冬、が四季のはじまりで、できるだけ立春が元旦に近くなるように暦を作る。しかし、日付を決める太陰(月)の運行と、太陽の位置を示す立春の日が一致しないため、半月くらいずれる場合もあるのだ。(泉光院江戸旅行記)

「恵方」とは歳神様のいらっしゃる方角のこと、この歳神様をお迎えするために正月飾りの門松や鏡もちをお供えします。

節分は「おにやらい」(追儺)の行事。追儺は鬼払いで、上代(大昔)の人たちは、悪いものはすべて「鬼」で表現した。それで駆疫の意味に通じる。「追」の文字をかぶせては重複だが、慣習的に使われている。追儺の儀式が宮中で始まったのは、慶雲三年(706年)十二月晦日の夜の亥の刻とされ、この日清めのそばを食べ清々しく立春を迎えることになる。(蕎麦辞典)

追儺とは、別名「鬼やらい」「鬼走」「厄払い」「役神送り」「駆儺(くだし)」ともいい、災難を追放し、招福を得るというものです。「儺(だ)」は、「難」と同じで、「難」は(つつしむ)意味をもつことから駆疫の意味ともなって「儺(だ)」を使うようになりました。(やくよけ祖師本山堀之内妙法寺HP)