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東京の三大蕎麦 暖簾 歴史 店舗数

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長寿庵のいわれ

ウィキペディアでは「藪」「更科」「砂場」を江戸蕎麦三大系列あるいは「江戸三大蕎麦」としていますが、東京のおそばやさん(麺類協同組合HP)で調べると、更科64件//砂場37件//藪7件、となっており長寿庵は81件でTOPです。組合に未加入の店舗もありますが、店舗数的には「長寿庵」「更科」「砂場」「藪」の順なので、東京の三大蕎麦屋は店舗数的には当然「長寿庵」が含まれます。

江戸蕎麦の「のれん」の歴史を調べてみても創業の古いものから、砂場1584年//藪蕎麦1735年//更科1789年に対して、長寿庵の創業は1702年で申し分のない歴史だと言えます。のれんの古さからいえば江戸蕎麦三大暖簾は「砂場」「長寿庵」「藪」です。
長寿庵の会派は4会派に分かれ、当店は「采女会」という会派に属しています。

昭和63年に「采女会系統図」を作成しのれん会の会員に配布されていて、そこから暖簾のルーツをたどってゆくと、昭和43年創業の当店は、昭和13年創業の東砂町・長寿庵(片桐氏)からの暖簾分けです。その片桐氏は明治40年創業、新橋・長寿庵(栗田氏)からの暖簾分けで、その栗田氏は明治10年創業、銀座采女町・長寿庵から出ています、そしてこの采女町の長寿庵こそ「采女会」の創始者です。総本店・采女町(栗田)明治10年>新橋(栗田)明治40年>東砂町(片桐)昭和13年>当店昭和43年

あいにく10数年前に東砂町の長寿庵が廃業しているので正確な詳細は分かりませんが、新橋、品川、采女町の4店舗がすべて栗田姓なので同一店舗なのか親戚あるいはご兄弟なのもしれません。
今はっきり言えるのは、采女会の総本店は現在「旗の台」の長寿庵(栗田氏)でありその総本店は旗の台に移転する以前は目黒にありました。総本店といえども長い年月の間にはその時代時代にあった形や場所で暖簾を守り続け現在に至っております。
さてその総本店以前の長寿庵はどこにあったかというと銀座竹川町、現在の銀座7丁目です。長寿庵総本店(旗の台)のさらに上、宗家長寿庵の創業は元禄15年(1702)つまり今から350年前に遡ります。三河(現愛知県)から上京してきた「惣七」が江戸の京橋五郎兵衛町(現在の東京駅八重洲口付近)に店を出したのが元禄15年でそれが長寿庵誕生の瞬間です。当時の江戸では蕎麦切りがはやり多くのそば屋、繁盛店があり、新規の暖簾には「庵」を付けるのが流行のようになってました、そこで惣七は自分の店を「長寿庵」としました。享保2年(1717)に一度焼失しますがすぐに立ち直り、以前にもまして繁盛します。その後「三河屋惣七」は代々引き継がれ5代目から「惣七」改め「宗七」と名乗り、明治に入ると6代目「宗七」は「倉橋」姓を名乗ります。明治5年の大火で焼け出されますが数ヵ月後にはレンガ造りの洋館の蕎麦屋「長寿庵」が竹川町(現銀座7丁目)に開業します。その後昭和20年の東京大空襲以後竹川町に長寿庵は再建されませんでした。

(その竹川町の跡地に「倉橋ビル」があり「元祖長寿庵」の碑があると聞いて先日探してみたのですがとうとうわかりませんでした。写真はその倉橋ビルがあったと思われる銀座7丁目付近です)
さてその後の「長寿庵」は宗家から暖簾分けされた「采女会」総本店の栗田氏の他に、宗家から明治32年に独立した麻布四之橋「村奈嘉与吉」氏を開祖とする「四之橋会」さらに采女会の総本店から明治30年に独立した「吉田寅次郎」氏を開祖とする「十日会」明治42年にやはり采女会の総本店から独立した「五十嵐友五郎」氏が開祖の「実成会」と大きく4つの会派に分かれて現在に至っております。
「長寿庵」という屋号は登録商標として管理されていますが、同じ「長寿庵」という暖簾を掲げながらチェーン店などではなく、それぞれが独立し、規模も、商売のやり方、営業形態、メニューも統一せず営業しています、それぞれの地域にあった形、地域密着の蕎麦屋を目指す、それが「長寿庵」です。

三河屋惣七(倉橋)総家_元禄15年(1702)
■≫「采女会」栗田作次郎(総本店) M10(1877)
≫≫■≫≫「十日会」吉田寅次郎   M30(1897)
≫≫■≫≫「実成会」五十嵐友五郎 M42(1909)
□≫「四之橋会」村奈嘉与吉  M32(1899)

昭和43年創業の当店は江戸川区の特産品を使った麺を各種取り揃えております。
おかげさまで地産地消や変わり麺として各種メディアでも御取り上げていただいております

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